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WELLSTONE'S HISTORY

Plologue

ババ・・・・バリバリ・・・ガッシャーン。痛っ。ありゃ、ドライブシャフトが曲ってる。タイヤはパンクしてる。今夜は、終わりだっ。ついてねーなぁ。足から血が出てるし・・・。とある住宅予定地で、1970年のある深夜だった。

カートと出遭ったのは、1969年。この頃は、カートコースでなくても、カートで走っても今ほどうるさく言われなかった。走れるところを見つけては走ったもんだ。宅地予定地は、直角コーナーしかなく、おまけに端はどぶ。その先はコンクリートウォール。そんなところを毎夜攻めつづけていた。


1969年頃 清水サーキットにて


1971年頃

1972

ようやく、JAFがカートライセンスの発行を開始した。この年にレースにデビューした。デビューレースは、千葉県にあった船橋ヘルスセンターゴーカートコースでリニューアルオープン記念レースだ。結果は3位だった。3位になった悔しさと妙な満足感が、俺の胸の中を熱くした。これがなければ、カートにのめり込まなかったな。

その後、富士サーキットや清水サーキットと転戦するようになる。

当時、一番の思い出は、それまでカートレースというのは仲間内でやっていたようなレースだったが、JAFがはじめてカートレースを統括し、青森陸奥湾インターナショナルコースで開催したレースだ。そう、幻の初の日本グランプリって奴だ。

加藤辰夫君(TATSU KART MACCANICA)や鈴木亜久利君とお父さんの鈴木正士さん、遠藤渉君(Friends)、矢島康夫君と出逢ったのもこの頃だ。

このレースでは、TEAMレースで3位を取ったが、個人レースでは、ファイナルラップ最終コーナーでチェーンが切れてリタイヤになった。しかし、完走が認められて、スターティングマネーをもらい、合計50,000円を獲得した。当時は、ガソリンが1リッター45円の時代だったから結構な金額だった。


1973年頃 浜松オートレース場にて

1973

YAMAHAのレーシングカートが販売されたのがこの頃。この頃に、「WELLSTONE KART SHOP & CLUB」の活動を開始する。この頃の取り扱い商品は、アメリカ製のカートとパーツがメインであったが、YAMAHAがカートを売り出したのを契機にYAMAHAのカートがメインになっていく。


1973年頃 武蔵野サーキットにて

1975

WELLSTONE KART CLUBが本格的に活動し始めたのはこの頃。主な活動場所は、茨城県に出来たサシマカートランドである。YAMAHA SLカートレース、JAF全日本選手権、地方選手権の開催、カートライセンス講習会、etc...

クラブ員の技術向上と充実した毎日を送り、家族をかえりみず、カートに打ち込んだのもこの時期だった。


1974年頃 清水サーキットにて

1977

第1回パナソニック日本グランプリ(菅生大会)に参戦する。参加台数は70台にも達し、全世界からエントリーがあった。

結局、ファイナリストにはなったが、途中リタイヤし、悔しい思いをしたレースだった。

この頃のエンジンはコメットK88だったが、ロータリバルブエンジンで、現在のFSAに相当するクラスだった。現在のコメットはK55でクランクリードバルブエンジンである。


1977年頃 スポーツランド菅生

1978

第2回日本グランプリ(菅生大会)に参戦。今にして思うと非常に感慨深いレースだった。この時のレースにアイルトン・セナ・ダ・シルバが出場していた。そうあのアイルトン・セナだ。当時、彼は16歳で、自分より10歳年下だったが、きらめいていた。

10月の仙台スポーツランド菅生のレースウィーク。快晴の木曜日。いきなりの練習走行で、5周目にはコースレコードのタイムを出したのはびっくり。しかもその時は、スラックスに半袖のシャツ。くつはスニーカーという姿。ヘルメットはこの頃から定番のブラジル国旗カラーだった。

初めての国とコースでこのタイムを出すとは・・・・。そうめいに輝くダ・シルバにしばらく目が奪われてしまった。やっぱり、速い奴は違うオーラを発する。

この光景は、25年たった今でも目に焼き付いている。俺にとって、セナは、ダ・ジルバは、心の中で生きているのだ。菅生カートカートコースに行けばいつでもダ・ジルバに合える。

この大会でも、ファイナリストにはなるのだが、10位入賞することはできなかった。ダ・シルバは4位であった。


1978年頃 加藤達夫氏と横田基地にて

1981

千葉県に2つめのカートコース成田カートランドが誕生。一つ目は、四街道にあった旧新東京サーキット。

サシマカートランドから成田カートランドに活動の母体を移し、千葉県のカート発展に尽くす。

年月は流れ、30歳になった。既にカートと出会って11年が経ったこの年。毎年日本グランプリに出場できる自分は幸せであったが、成田カートランドからの帰路に交通事故に遭い、入院する。退院後は後遺症に悩まされ、事実上の引退となった。

WELLSTONE KART CLUBはジプシークラブとなる。

1986

少し調子を戻したこの頃。久しぶりにレースに参戦。成田カートランド第1回2時間耐久レースに参加し、見事優勝賞金320,000円を獲得する。その時の相棒は、小学生6年生の猪口直幸君。後に全日本ドライバー。現在は学校の先生で、スズキハヤブサのワークスドライバーで活躍中。当時はクラブ員でした。

獲得した賞金は、半分づつわけましたが、その年に開催された香港カートGP観戦ツアーに二人で参加したが、夜は遊びにも行けず、独りで酒のんでいた。

結局、体調がまたしても悪くなり、事実上このレースが最後だった。でも、自分の納得のいくレースで、福島のチームボルカノの渡辺辰夫君と渡り合った最後のレースでもあった。「ナベタツ」はがっくりしていた。

今でも「ナベタツ」とは菅生に行くと声を掛け合って、お互いの老け具合を確かめている。「いや、まだまだっ!」

1987

成田カートランドが諸般の事情で閉鎖される。

1990

千葉県に3つ目のカートコースが茂原にできる。当時は茂原モータースポーツランドと言う名で誕生した(現在は、茂原ツインサーキットととなり、コース規模を拡大して運営されている)。

茂原モータースポーツランドに活動の母体にして、WELLSTONE KART CLUBが再開する。

SLレース、地方選手権、ライセンス講習会などを開催する。

1993

ショップを千葉県船橋市より、東京都江戸川区の江戸川沿いに移転する。新たな一歩を踏み出すと同時にクラブ名を、「リバーサイドRT&WKC」とした。また、クラブとショップを分け、みんなが利用できるよう、ショップ名を「かぁと百貨店」とした。

(編集注:「リバーサイドRT&WKC」と明言したのは1998年ぐらいからだったと思う。当時、WELLSTONEの名前が強くて、「Riverside Racing Team」とエントリー用紙に書いても、エントリーリストには、「WELLSTONE KC」と書き直されていた。)

1995

体調不良により活動を一時休止する。

(編集注:ショップとクラブは運営していた。)

1996

小規模ながらも、カート界の向上と育成のために、リバーサイドRT&WKCは活動する。その精神は、「基本の基本」を指導内容に、「まず走れ!」、「目的意識を持て!」に尽きる。そして、コースサイドでは、いつも選手と心は一緒になって、走っている。

Epilogue

こうやって、思い返すと、カートに出会って、親友がたくさんできたし(いやな奴もいるけどなっ)、日本のカート界にも貢献できたとも思う。家族にも多大な負担を強いたかもしれん。でも、レーシングカートのおかげでこんなに熱い人生を送っている。そうさっ!レーシングカートは俺の人生さっ!

The Racing Kart is my life!


1976年頃 サシマカートランド

Text: Toshihisa Ishii / Edit: Takayuki Moki (尚、文章の内容と写真は一致しません。)

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